昭和の時代を始めるには、大正の時代に触れる必要があります。
明治の時代が45年続いた一方、大正の時代は15年と短い間でした。
(明治:1868〜1911年 大正:1912〜1925年)
明治維新。徳川に大政奉還をさせてから、時は経ち、45年。
産業革命を遂げ世界中に猛威を振るうイギリス、アメリカを代表する西側勢に対抗するため、富国強兵を突き進んだ明治時代を終え、日本は世界に影響を与えられるほどにまで成長しました。
大正3年、ヨーロッパを戦場として勃発した第一次世界大戦では、日本は漁夫の利で中国、アジアに大きく勢力を伸ばし、これを機に日本は一気に世界の強国と肩を並べることになりました。
対外的に大きな特徴は、明治時代にイギリス、アメリカに支援を受けていた日本が、対立関係を強くしていくことです。アジア唯一の強国として地位を確立した一方で、世界的からの政治圧力が強まっていきます。
国内的には民主主義への要求が高まった時代でした。大正デモクラシーの言葉の通り、明治維新の主役、薩長主体の政治は終わりを迎え、普通選挙による政党政治に転換していきます。
生活に目を向けると、資本主義の発展により、都市生活は著しく近代化。大学、専門学校の拡張により知識階級が多く創出されたりと、多彩な文化が生まれていきます。当時まだ和服が主体であった日本ですが、流行に敏感な若者が西洋文化を取り入れ始めた時期でもあります。
「モダンガール」や「文化生活」に代表されるように、「モダン」や「文化」という言葉が大流行したようです。
今回は、大正時代の世界情勢と日本の政治に対する変化を書いていきます。
平成ギャル「やばみ!チョベリバ!それズッ友じゃねえべ?」
大正モダンガール「ほゝゝ。私、ラブ?したんぢやないでせうか。ねえ。若し眞實(ほんと)に戀(こひ)してゐるのでしたら、貴方は什麼(どう)なさる。」
第一次世界大戦により日本が得た世界での地位
第一次世界大戦(大正3年〜)
ドイツ、オーストリア、イタリア vs イギリス、フランス、ロシア
第一次世界大戦の勃発時、日本は積極的にイギリス、フランスの連合国側に加担しました。
ドイツが占領していた、中国、山東省の青島を占領したことを機に、中国に二十一ヵ条を突きつけました。
これは山東省や満州の権益を独占するばかりか、中国政府をも勢力下におこうとするものでした。
終戦後、戦争により疲弊したヨーロッパ諸国はアジアから一旦、引き上げます。
その隙に中国やアジア市場に日本製品の輸出を拡大した結果、日本の景気は好転、
独占資本主義を達成した、日本は一気に世界列強と肩を並べるにまでなりました。
成金
この時期には「成金」と呼ばれる一攫千金を果たした人が続出しました。
「暗くて靴がよく見えない女の人のために、紙幣に火をつけ明かりを灯す」風刺が有名ですね。
あんまり品がない金持ちが嫌われるのはいつの時代も同じですね。
https://ja.uncyclopedia.info/wiki/成金
シベリア出兵 (大正7年)
第一次世界大戦と並行して、ロシア革命が発生します。
この結果、世界初の社会主義国家、ソビエト連邦が樹立します。
ジベリア出兵はロシアの革命干渉だと言われています。
アメリカ、イギリス、日本を主に各国出兵が出兵しました。
ただ、日本はロシアと地理的に近いこともあり、思惑が強く現れました。
具体的には満州、朝鮮の領土的優位の担保が示唆されます。
その後、ドイツ革命により世界大戦が終わると、出兵の目的がなくなり、
各国撤退した後も、日本軍は滞在します。
これがアメリカ、イギリスからロシア領土確保の目的を疑われ対立を深める結果となります。
一方で成果が出ないことも重なり、日本国内でも批判が高まっていきます。
ヴェルサイユ条約(大正8年)
連合国とドイツの講和条約締結のために開かれたヴェルサイユ会議に、日本は5大国の一つとして参加しました。
また、アメリカにより恒久平和機関を目的とした、国際連盟が発足します。
- 秘密外交の廃止
- 無併合
- 無賠償
- 民主自決の原則
アメリカ大統領は、これらを含む平和14原則を発表。
世界全体が平和に向け期待をよせます。
しかし、これらの平和原則はついに守られることはありませんでした。
ヴェルサイユ条約ではドイツ、オーストリアに天文学的な賠償金、軍縮等を請求。
結果、各国の帝国主義が促進され、次の帝国主義戦争の原因を残すことになりました。
ワシントン会議(大正10年)
第一次世界大戦終結後、日本が得た中国に対しての利益は強大でした。
大正10年、アメリカの提唱でワシントン会議が開催され、
中国の領土保全、機会均等などを記した九ヶ国条約に調印します。
この会議により、日本は戦争中に目指した独占的地位が否定されます。
・山東省の権益を中国に返却
シベリアからの撤兵
・主力艦の保有量をアメリカ、イギリスの6割とする(日本は7割を提唱するが否決)
アヘン戦争(1840年)以来、中国は強国により領土を分割し支配されてきました。大正の時代(1910年前後)は特に、中国をどう分割するかを国内外で議論されいたのです。
日本の民主化への動き
シベリア出兵のために行われた米の買い占めにより、米価が高沸。
富山の主婦が値下げを訴えたことを新聞が報道したことをかわぎりに、
民衆は米屋や高利貸しを襲い、一方で労働者の待遇改善を訴える。約70万人が参加する1ヶ月の米騒動となりました。
米騒動は初めての本格的な労働運動だと言われており、支配階級に大きな衝撃を与えました。
この米騒動を発端に、労働団体の設立が始まり、一方で民主主義への動きが始まります。
民本主義
明治時代は、政治、軍事、宗教、教育などあらゆる面で、明治国家体制を作り上げた薩長出身者が主体として作り上げてきましたが、その体勢が終わりを迎えます。
大正5年、東京帝大教授 吉野作造が「民本主義」についての論文を提出します。
民本主義を噛み砕いて説明しますと・・
- 天皇主権については言及しない
- 薩長出身者には退いてもらう
- 納税額により制限があった選挙制度を取りやめる
- 普通選挙による政党政治を目指す
民本主義は「大阪朝日新聞」「大阪毎日新聞」を始めとする多くの言論機関の支持を受けたこともあり、民衆、知識人の間に広く流通しました。
当時は日本だけでなく、世界各国で帝国主義からの脱却を目指し、国のあり方について議論されていました。
民主主義や共産主義はその中から出てきた考え方です。
ただし、ヨーロッパ各国と違い国内の戦争を経験しなかった日本国民は、民本主義への渇望は薄く、大戦後ますます激しくなる各国列強の争いの中、非現実的と考えるようになっていきます。
戦後恐慌
第一次世界大戦やその後の特需によりバブル状態であった日本ですが、
ヨーロッパ各国の戦後からの復帰により供給過多が進み、経済が悪化します。
その結果、八幡製鉄所、神戸の三菱などで大規模ストが発生。
労働運動の発展により、力をつけた学生や知識人は次第に社会主義的思想を主張するようになります。一方、政党側は、団体運動の過激化を防ぐために、普通選挙が必要と主張するようになります。
こうして、学生団体や労働団体の多くが民本主義から社会主義に思想を転換していく中、
普通選挙の概念は、政党政治家の党勢拡大のために利用されるようになりました。
関東大震災(大正12年)
戦後不況の回復も待たずして、日本は関東大震災による被害を受けます。190万人が被災、10万5,000人あまりが死亡あるいは行方不明になったと推定されています。
この震災では学生団体や労働団体の思想の転換がありました。
政府は厳戒令をしいたが、このもとで、三千人に及ぶ朝鮮人が一般市民の組織する自衛団などの手で惨殺された。(中略)警察から出たと見られる「不逞鮮人」襲撃のデマにのせられて、不安におびえた市民が、理性を失って、排外主義的な感情にかられたからであった。(中略)このような白色テロルが公公然と横行した事実は、社会主義陣営に大きな影響を与えた。
政府に頼らず、弱者の自組織団体による政治を目指した共産主義思想でしたが、団体はそれを理想論として捉え右翼思想によっていきます。共産党内では「日本では時期尚早であった」と意見が主となり、解散に至ります。
大正デモクラシー(大正14年)
こうして、団体の左翼思想が弱まる一方で、戦後恐慌、関東大震災により政府への不満は高まっていきます。
もはや普通選挙は社会革命をさける安全弁として避けられないという議論が高まり、
大正14年、ついに男子普通選挙を規定した選挙法改正案が議会を通過します。
一方で、治安維持法が同年に議会を通過します。これは結社及び運動を禁止しており、わずかでも関係を持ったものを10年以下の禁錮刑にすることが定められました。
ここまで読んでいただきありがとうございます。まとめます。
大正時代に国民が得た、普通選挙の権利は薩長の既得権益からの脱却を目指したところから発端していますが、実際は、共産的思考を恐れた政党側に利用されたに過ぎないことを特色としています。
大正デモクラシーでは、選挙権を民衆が勝ち取ったものの、その考え方の根本にある国民主権は浸透しなかったようです。むしろ思想形成の主は義務教育であり、いわゆる国家主義的思想教育がこの時代がら強まっていきます。
第一次世界大戦により、一気に世界でも有数の強国となった日本ですが、戦後不況から2度の経済危機を経験し国力は弱まる一方、外国との対立は深まっていきます。
激動の大正時代15年を終え、時代は昭和に進みます。
昭和の時代は金融危機から幕を開けます。戦後恐慌、関東大地震とすでに国力が下がっているにもかかわらず・・・。
では、もじゃひつじでした!
昭和史 新版 (岩波新書) 新書 – 1959/8/31 遠山 茂樹(著), 藤原 彰(著), 今井 清一(著)
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