昭和初頭の話です。
大正の時代、日本は第一次世界大戦を終え5大国まで上り詰めました。
また、国民の政治的意識も向上し大正デモクラシーを達成。民主化への道を見出します。
じゃあなんで、日本は昭和に入り帝国主義を強めていくん?
なんで、第二次世界大戦を回避できんかったん?
その問いの答えは一つではありません。
過去の記事でも掲載いたしましたが、参考図書(最後に記載します)のはしがきはこう始まります。
「この書籍は、昭和の歴史を、特に14年間の戦争の歴史に重点をおいて、とりあげている。この時期の歴史はくりかえし語られなければいけない。そこには私たちのつきぬ思いがあり、忘れることのできない犠牲がはらわれている。戦争体験こそ、今日及び明日、日本人が生きてゆくための叡智と力とをくみとることができる、尊い国民的財産である。」
歴史を知る上で、疑問に結論を求めるのではなく、過去の経験から今の状況を考え続けることが大切だと思うのです。
昭和元年ー5年は戦争への過程という意味で、非常に重要な時代です。
大国に成長し、アメリカ、イギリスと対立を深めていく中、日本は4度の経済危機を経験します。
- 大正9年「戦後恐慌」
- 大正12年「関東大地震」
- 昭和2年「金融恐慌」
- 昭和5年「世界恐慌」
世界との対立が深まる中、日本国内の生活の状況は悪化していき、中国への侵略に活路を見出さざるを得ない状況に追い込まれていきます。
その後、満州事変に始まり、日中戦争、太平洋戦争と発展していきます。
今回は度重なる恐慌により、日本の政治、経済がどのように変化していったかに焦点を当てます。
- 大正元年第一次世界大戦アメリカ、イギリスに加担。中国での利権を広げる
- 大正8年ベルサイユ会議5大国として参加
- 大正9年戦後恐慌
- 大正11年ワシントン会議アメリカが日本の中国支配に反発。軍事面を中心に制限が課される
- 大正12年関東大震災
- 大正14年普通選挙法 / 治安維持法成立明治維新より続いた薩長による政治が終わりを迎える一方で、政府に反する議論を取り締まる法律が成立する
今回の記事 / 次回以降の記事
- 昭和2年金融恐慌/山東省出兵
- 昭和3年普通選挙実施
- 昭和4年ニューヨーク株式大暴落
- 昭和5年ロンドン条約/金解禁/世界恐慌
- 以後次回予定
- 満州事変
- 日中戦争
- 太平洋戦争
この時代から書籍によってかなり主張が変わります。
書籍は帝国主義批判の主張が強く、おそらく故意に書かれていない歴史部分もあります。
基本的には参考文献を主として記事を進めていくことを初めに断っておきます。
昭和史 新版 (岩波新書) 新書 – 1959/8/31 遠山 茂樹(著), 藤原 彰(著), 今井 清一(著)
幣原外交
大正13年から昭和2年までの外交を当時外務大臣の名を取り、幣原貿易と呼びます。
日本は第一次世界大戦を終えてから、アメリカ、イギリスとの対立がますことで国際的に孤立する危険を持ち、また、関東大震災により痛手を負っていました。
幣原はアメリカ、イギリスと協調を図る一方で、中国に対しては内政不干渉を掲げ、中国側の国権回復の要求にもある程度、同情ある態度を示しました。
五・三〇事件を発端に中国では反帝国革命運動が激しくなり、特にイギリスが勢力を張っていた広東、香港で激しく起きました。
上海の日本紡績工場でストライキ。中国労働者が日本人監督官、イギリス警察官と衝突し、数人が殺傷された。これに抗議する労働者、学生のデモが、イギリス警官の発砲により十数人殺傷された事件。
幣原の外交の意図は中国の反帝運動の目標とされることを極力避けることでした。
昭和2年、狙いに違わず、蒋介石が率いる国民革命軍は上海で反共クーデーターを行い、共産党と総工会(労働組合の連合体)を弾圧します。この、反共の南京政府の出現は、共産党と対立していた日本にとって、好都合でした。
しかし、国内政界では「国民革命軍の目覚しい北上」を見て、幣原外交は生ぬるく、イギリスと手を組み権益擁護のために出兵すべきだという主張が盛り上がります。
※「共産主義を嫌った右翼・軍部が権益擁護のために出兵すべきと唱えた」が参考文献の主張です。一方で、「国民革命軍が起こした南京事件が日本と中国の関係を変えた」という主張もあります。
金融恐慌 (昭和2年)
戦後恐慌、関東大地震と度重なる経済危機の度に日本銀行に救済貸出を行わせ、財界の動揺を防いできました。この結果、多くの銀行や会社は巨額な負債を抱えることとなります。
欧米企業が戦後企業の整理集中と生産設備の高度化を行い戦後不況を切り抜けていたことに対し、日本は関東大地震の影響で全体として立ち遅れていました。そして、国際収支の悪化と為替相場の下落に悩み続け、不況からついに回復することはできないままでいました。
こうした中でも一部の独占企業の生産設備の合理化は進み、また、政府の関税政策や大企業中心の補助金政策に助けられ、次第に外国資本と対立する力を持ち始めました。
そこで財界ではさらなる国際競争力を持つために、経済の整理と産業の合理化(すなわち、独占資本の支配)を進める必要があるという議論が起こり始めました。
政府はその第一歩として、銀行を整理するため、震災手形の処理を取り上げました。
この結果、銀行への不安が高まり、東京、横浜の二流銀行が相次いで休業を始め、そのパニックは地方にも広がっていきます。
台湾銀行と鈴木商店
金融恐慌がさらに拡大して、日本全体を揺さぶることとなるのは、台湾銀行の破産でした。
日清戦争を経て、1895ー1945年まで台湾は日本に統治下にあり、台湾銀行は台湾の開発や中国や南洋への経済進出を目的に作られた発券銀行でした。
ところが対戦中から放漫な貸出を行い、鈴木商店との腐れ縁ができました。
鈴木商店は外国貿易を中心に事業を広げた、三井物産と張り合うほどの大企業であり、60社の子会社を持っていました。ところが、当時、その大部分は経営困難に陥り、台湾銀行からの債務により存続している状況でした。
金融危機後の、震災手形法案の審議により、台湾銀行の鈴木商店への無担保貸付は止められ、結果、鈴木商店は破産、その反動を受けた台湾銀行も破産しました。
この金融恐慌により、中小銀行が潰れた結果、大口預金が三井、三菱、住友、安田、第一銀行に集中し、金融への支配権が強まります。
また、鈴木商店が破産した後、子会社は三井、三菱に吸収され12ー13社程度であった両社は97社、65社にまで発展します。
・鈴木商店に利用されていた台湾銀行も犠牲に
・結果、三井、三菱などの独占企業がさらに肥大化
山東出兵
国民革命軍の北上阻止は、幣原外交の批判+金融政策批判で政権を得た田中内閣の任務の一つでした。
金融恐慌を金融政策で脱した政府は、対中国の政策を一変させていきます。
金融恐慌の混乱が治ると同時に山東省に居留民の保護を理由に出兵。
ワシントン条約後撤退したとはいえ、第一次世界大戦の名残で山東省にはまだまだ権益が多くありました。また、一方で満州分離政策を進めて行きます。
(満州に関しては後述)
その後、普通選挙を経てさらに中国に2度の出兵を行います。
蒋介石は日本軍との衝突を避けようと努めた。ところが、5月3日、国民政府軍の済南入場に際して、居留民を殺傷略奪したという理由で、日本軍は一挙に済南城を攻撃し、攻略した。(中略)虐殺された居留民は120名であると大きく報道されたが(中略)実際は十余名であった。
相次ぐ日本政府の強硬政策は中国国民の反日感情を強く掻き立てていきます。
※ネットを見ると済南事件時に中国軍に殺害された人数は300人だったとか1000人だったとか、5人だったとか殺されてないとか、色々な意見がとびかっており、はっきり言って何を信じて良いのか全くわかりません。
恐慌下の労農運動
金融恐慌により独占をすすめた大企業は、合理化のため解雇、賃下げを恐慌します。
一方、中小企業は次々に廃業していきました。
この結果、解雇、賃下げに反対し失業手当を求める労働運動に発展しました。
さらには金融恐慌は農村にも飛び火し悪税反対、電燈料値下げをかかげます運動が起こります。
このように運動は発展していき、さらには田中内閣の山東出兵の際には労農、日労、社民三党が共同し「対支(中国)非干渉運動」を起こすほどになりました。
こうした動きの中、コミンテルン執行委員会は「日本にかんするテーゼ」を示し日本共産党の進路を示し、君主制の廃止、言論・集会・結社の自由・八時間労働性を要求。
また、これまでの公に出ずに活動していたことを改め、労働者のための大衆党を目指して、公然化した活動を目指すために中央機関紙「赤旗」を発刊しました。
テーゼ・・・政治の基本活動方針
金解禁と世界恐慌 (昭和4年)
張作霖の爆殺事件が発生します。張作霖は満州の利権に関する重要人物であったため、民政党はこの事件の真相を追究。また、(満州を収めることができなかったから?)山東出兵が「いちじるしき軽挙妄動」と非難
そんなこんなで田中内閣に変わり、浜口首相民政党内閣が誕生します。
(すいません、結構調べたのですが、この辺の経緯は複雑すぎて纏めれきれませんでした。またいつか勉強して追記します。)
金解禁
金解禁というのは金の輸出を制限せずに金本位制に従うことをいいます。
金本位制というのは金の価値を基準に紙幣の価値を決めようということです。
金解禁の目的は、金と紙幣の交換を自由化して、紙幣の価値を安定化させようするところにあります。
一方でデメリットとして、金が国から流出するリスクが発生するため、国力低下を懸念する日本政府は最後まで断行せずにいました。
昭和3年、フランスが金解禁を行なったことにより、主要国でこれを行なっていないのは日本のみとなり批判を受けました。
また、日本国内でも為替相場の不安定に悩まされおり、金融恐慌脱却の手段としての執行を、金融界、貿易会社を主に強く要望を受けます。
昭和4年、田中内閣は金解禁を行います。
各新聞社が「多年の暗雲ここに一掃される」とまでプロモーションを行うほど、経済回復が期待されました。

金本位制に関しては、リンク記事の中盤に説明がありますので、よければご参照ください。
世界恐慌
しかしながら、浜口内閣が金解禁を決定した時にはすでにウォール街ではすでに株式市場の大暴落が始まっていました。1929年(昭和4年)に始まった恐慌は次々に資本主義国を巻き込み、31年にはイギリスが金本位制を中止、32年にはアメリカの全銀行が休業となります。
特に市場独占の進んだアメリカとドイツでの影響が酷く、失業率がドイツでは44%、アメリカでは32%。世界中では5千万人の失業者が生まれました。
企業の独占化
金融恐慌により進んだ大企業の独占化により庶民への影響はさらに不利に働きました。
中小企業は廃業が相次ぎ、大企業は賃下げや解雇を行い失業者は300万人規模まで広がりました。
一方で、大企業は独占・寡占を進め、物価下落を防ぎます。
浜口内閣の輸出振興のための金解禁は世界恐慌の被害を強めました。
為替相場が一気に円安に転じる可能性を察した、三井銀行を主とする大企業は金と引き換えにドルの購入を進め莫大な利潤を得ます。(ドル買い事件)
一方でのちの金解禁の停止までに国庫から流出した金は600トンに上ると言われています。
(参考に現在日本が保有ている金の量は800トン程度)
このように資本の産業支配が進行し、工業、金融、商業、農業をも支配する巨大企業が三井、三菱、住友などの財閥を頂点に形成されます。
このときに形成された独占経済はのちに帝国主義をさらに加速させることになります。
恐慌による運動
日本国内ではストライキをはじめとした労働者の運動が拡大していき、それは農村にも広がります。
一方で、朝鮮や台湾にも不況は広がり大きな暴動へと発展していきます。
経済的な矛盾を国内・支配地で抱えるよになった日本は満州問題に関心を向けるようになります。
中国からは満州における関税自主権の回復を達成され、さらに治外法権の撤廃を要求されます。
また、恐慌により貿易赤字が拡大。満州鉄道の収入は昭和6年に前年度の1/3まで落ち込みます。
こうした問題に対して武力行使による解決を唱える軍部の動きは活発化しました。
また、右翼側の主張も大きくなり満州問題に対する武力行使の後押しをします。明治以来、もともと一部浪人や志士の運動にすぎなかった活動が、恐慌下の国民の不満と大概緊張とを格好の地盤として、新しい性格を帯びてきます。
政治の腐敗や資本家の暴利を批判し、天皇親政による国内改造と戦争による対外進出を説く者が出てきました。
簡単に書くと既得権益は天皇の利権を犯しているという考え方であり、三井銀行のドル買い事件の際は国賊と強く批判しています。
まとめ
度重なる恐慌により日本国民の生活はますます貧しくなっていきます。
一方で、大企業は肥大化していき、政治家との癒着を強めこれがさらに状況を悪くしていきます。
この頃大きく思想は4つあったと読み取れます
政治の腐敗や資本家の暴利に対し・・・
- 利権を確保したい者
- 労働者、農業者の権利を確保したい者
- 天皇親政の深化と戦争による対外進出により状況を打破したい者
既得権益の腐敗は日本にどう影響を与えるのか?
日本はどの道を選ぶのか?
最後まで長文読んでいただきありがとうございました。
(おまけ)
政治の流れ
ちょっと纏めてみました。大正の頃から振り返ります。
立憲政友会は初代内閣総理大臣の伊藤博文所属の政党です。
明治維新以来、圧倒的な権力を持ち続けてました。
また、三井、安田、渋沢財閥の支持を得ています。
前回触れましたが、社会革命を避ける安全弁として普通選挙の導入を主張していた、憲政会・政友会・革新倶楽部の三党が組み、政友本党に勝利します。
同年に普通選挙法案と治安維持法案が議会を通過します。
対象デモクラシーから4年。ついに日本初の普通選挙が開催されます。
政友218 当時の与党
民政216 憲政会と政友本党が合併
(無産政党)社民4 労農2 日労1
当時の共産思想を持つ政党が議席を獲得したことは、政府に大きな衝撃を走らせました。
選挙して1ヶ月も経たないうちに、治安維持法に問われ、日本共産党等の活動員数千名が検束されています(三・一五事件)
この流れはのちに治安維持法の強化につながります。
普通選挙が民主主義を達成したとは言い難いことがわかりますね。民主主義ってなんなんでしょうね。
この記事は#週1ブロマガに参加しています。
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