日本近現代史4 日本で起きた軍事クーデター

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社会 / 歴史

大正元年、第一次世界大戦で戦争特需を受けた日本。明治から続いた「幕末志士」による支配政治は「大正デモクラシー」による民主化され日本は政党政治に舵を切ります。

その後3つの恐慌と大震災により経済的に追い詰められた日本は満州支配に活路を見出します。

一方、日本の主権は誰なのか・・。度重なる恐慌により肥大化していく独占企業。癒着する政治家。このころ国民の勢力は主に3つに分けられます。

政治の腐敗や資本家の暴利に対し・・・

  1. 利権を確保したい者
  2. 労働者、農業者の権利を確保したい者
  3. 天皇親政の深化と戦争による対外進出により状況を打破したい者

 

社会はその時を生きた人全ての思いで揺れ動いていきます。歴史を一つの見解で説明することは不可能であり、特にこの時代の歴史はかなり複雑です。ただ、これを読み解こうとすることは、日本の帝国主義とはなんであったのか考えることになりうると思っています。

 

大正ー昭和5年 1914ー1930
  • 大正元年
    第一次世界大戦
  • 大正9年
    戦後恐慌
  • 大正12年
    関東大震災
  • 昭和2年
    金融恐慌/山東省出兵
  • 昭和5年
    世界恐慌
  • 昭和6年
    満州電鉄爆破事件
  • 昭和7年1月
    上海事変
  • 昭和7年3月
    満州国建国
今回の記事
  • 昭和7年
    五・一五事件
  • 昭和11年
    二・二六事件

 

※参考文献を主に記事を進めているため、思想が偏る場合があります。中立を意識していますが、ご理解のほどお願いします。

参考文献
昭和史 新版 (岩波新書) 新書 – 1959/8/31 遠山 茂樹(著),  藤原 彰(著),  今井 清一(著)
連載まとめ記事はこちら
https://mojahitsuji.com/modern-history

昭和の大衆文化

昭和初頭の大衆の文化に、少し触れます。

明治・大正まで多く見られた世論・思想の議論は雑誌新聞から消えていき軍国主義の宣伝が活発化していきます。

一方、恐慌と戦争のなかでの生活の重苦しさからメディアは息抜きの役割をにない始めます。

  • ラジオ放送ー1925年開始。1933年には聴衆者数195万戸。
  • 蓄音機の普及により、レコードによる歌謡曲の流行も華やかに。
  • 都市の小富裕層圏を中心に「エロ・グロ・ナンセンス」と言われた頽廃的(風紀が乱れ、崩れ衰えること)な文化がひろがる
  • 33ー35年「東京音頭」などの踊りが異常なほど流行

 

すでに大衆に国論を議論する余力はなく、少しでも楽しいことを求めた時代でした。

(余談ですが、私はエログロは嫌いです。エロは好きですが。)

軍国主義の宣伝が活発に

満州事変から上海事変へと戦争が拡大するにつれ新聞、雑誌、ラジオを通して軍国主義の宣伝が活発にされるようになります。

満州事変が拡大すると、大新聞社は連日のように1ページ大の戦線写真の特集号外を発行して「極寒の野に闘ふ皇軍兵士」の姿を伝え、「守れ満州。帝国の生命線」と恐慌になやむ国民の感情に訴えた。

 

満州事変は日本民族の生存を守るために止むを得ない戦争とされ、満州問題が解決すれば日本の政治・経済的な行き詰まりが打開されるという希望が大衆に吹き込まれます。

青年将校らのおもい

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青年将校・・・陸軍大学出身のエリートではない、将校のこと

国内の行きづまりを打開し日本の危機を救うためには、「満州問題の解決」とならんで「国家改造」が必要。この考えを基盤に軍国主義化の先頭に立ったのは、民間右翼と結んだ青年将校でした。

青年将校は部下の兵士を通じて農村の窮乏を感じ取っていました。地主制下にある貧しい農村出身の粗衣粗食にたえて育った青年は、命令に忠実な良兵の卵とされました。

1931年秋。満州事変に活躍した第二師団の兵士の出身である東北、北海道地方一帯はひどい凶作におそわれます。多くの農民は飢え、子女の身売り、欠食児童の増加が大きな問題となっていました。

忠良な兵士が上になく父母や家族をのこして戦線におもむいているのに、腐敗した政党は財閥とむすんでドル買いなどと国家を忘れて私欲にはしり、あるいは米英の機嫌をうかがって皇軍の活動をさまたげている。

この危機を打開するためには、国家概念にもえた軍人を中心とする少数の志士が自ら捨石となって、政党、財閥ならびにこれとむすんだ君側の奸(かん:わるもの)である元老・重臣を打倒し、国民のめざめを促すべきだ

青年将校やこれとむすんだ右翼には、こうした使命感がありました。

血盟団事件

1932年(昭和7年)2月9日、衆議院の選挙戦の最中に、井上前蔵相が選挙の応援途上ピストルで射殺されます。

さらに、3月5日には三井合名理事長の団琢磨が三井銀行本店で射殺。

両事件の犯人はともに茨城県の青年でした。この事件から元老、重鎮、政党、財閥の巨頭を一人一殺主義で暗殺しようとした秘密結社の存在が発覚します。

この秘密結社は12名の青年によって組織され、陸海軍の青年将校とも繋がりをもっていました。使用されたピストルは霞浦航空隊にいた藤井大尉(3月に上海で戦死)より渡されたものでした。

青年将校との関係が明らかになるものの、現役軍人を取り調べ逮捕することができるのは憲兵のみ。青年将校らにはなんらの処置も取られず、これがさらにクーデターを呼ぶことになります。

五・一五事件

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5月15日 首相官邸内で犬養毅首相が射殺。

一団の海軍将校が首相官邸にのりつけ、「話せばわかる」という犬養毅を「問答無用」と射殺したこの会話は有名です。

さらに別働隊は牧野内大臣邸、警視庁、政友会本部、日本銀行などにも手榴弾を投げ、憲兵隊に自首しました。

 

五一五事件中心となった海軍青年将校らが目指したのは、ただちに戒厳令を布かせて軍部内閣を作り、軍事主義体制を打ち立てることでした。

この事件のあと、軍部は次期内閣について、政党内閣では中堅青年将校を抑えることができないと強く主張します。結果、五・一五事件から1週間後、元老西園寺らによる天皇への推薦により、海軍大将で元朝鮮総督の斎藤真が後継首相となります。

大正デモクラシーからわずか8年。軍部中心の政治体制が築き上げらたことにより、政党政治はファシズムの嵐の中でその幕を閉じました。

 

社会運動の動向

32年に農業恐慌はますます深刻化。「昼食を持たずに登校する児童」は全国で20万人を突破します。

全国の都市農村で、失業者、貧農を先頭とする米よこせ騒動がおこりました。が、政府の弾圧のためにかつての米騒動のようなエネルギーはすでに失われており、大きく発展することはありませんでした。

むしろ、官民の指導者によって広く宣伝された軍部の大陸政策を、農民は支持しはじめます。五・一五事件と大陸政策に思想的影響を与えられた人らを農本主義者と呼びました。

農本主義者の基礎思想は3点。

  • 農村の貧窮は土地が狭いため
  • 農家の二、三男は満州に移住せよ
  • 立国の基礎は農村にあり。農民の純朴勤勉な気風を奮いおこすことが重要

 

さらに、農本主義者らによって農村救済を求める請願運動がおき、議会に請求されます。

  • 農村負債のモラトリアムの即時決行
  • 満州移住費5000万円補助

 

当時軍部の「革新政策」に期待を寄せることはかなり一般的な思想でした。

大恐慌をとおして独占資本の激しい収奪を体験した国民は、財閥が重臣(天皇の側近)と結び、民政党、政友会の政党を使って、日本の政治を支配していると考えていました。

そして軍部vs政党・重臣・財閥の政治的対立が民衆の眼にはわかりやすく映り、軍部を利用して労働運動の行きづまりを打開しようという傾向は次第に強まり始めます。

軍国主義の支持が広まる一方で、労農運動、革命運動にたいする取り締まりは「非常時」を理由にはげしくなっていきました。

国防国家への道

1932年(昭和7年)日本は「満州国」を承認。これと同時に結ばれた「日満議定書」はたったの2か条。

  • 日満両国の共同防衛を認める
  • 日本軍の無条件駐屯を認める

これは満州国が日本の事実上の植民地であるという既成事実を確認したものに他なりません。

 

リットン調査団と国際連盟の脱退

国際連盟は満州の事態を調査するため、イギリスのリットン調査団を派遣。1932年の2ー7月に渡って日本、中国、満州国を視察します。10月に発表された「リットン報告書」はイギリスの政策を反映して、日本の満州政策に対して宥和的でした。

満州に対する中国の主権を認めながらも、日本の権益を全面的に保証。しかし、日本は中国が近代的に組織された国家とは認めがたく、満州は中国本土とは地理的かつ歴史的に別個の存在であり、「満州国」の樹立は満州住民の自発的行為に基づくものだと論じます。

1933年の1月、日本軍は山海関を占領。次いで熱河省も「満州国の領土だ」と宣言し攻撃を始め国際連盟を刺激します。

2月末の連盟総会では対日勧告案が42対1で採択されると、松岡日本代表は席を蹴って退場しました。その翌月の3月27日。日本政府は「東洋平和確率の根本方針に付き連盟と全然その所信を異にする」と国際連盟を脱退します。

ドイツの連盟脱退

ナチスドイツが政権についたのは日本が国際連盟を脱退した頃です。ヒトラーは大恐慌の圧力下にある民衆の不満を捉えて勢力を伸ばしました。

ひとたび重工業資本家や軍部と結んで政権を握ると、国会放火事件をでっちあげ、これを口実に共産党をはじめ労働運動を激しいテロで弾圧します。

日本が連盟を脱退した3月に、ヒトラーは議会を威圧し独裁を打ち立てます。そして、10月に軍備状の平等権を要求して連盟を脱退。

イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国はドイツの脅威におびやかされはじめることで、日本を制裁している余裕がありませんでした。

これが日本の世論をかきたてます。「強硬外交が成功した。断固として所信を貫けば英米おそるるに足らず。」

「生命線」満州は日本を豊かにしたのか?

満州事変により日本は国際的に孤立し、また戦争による軍事費の増加は大衆に厳しい生活を強いました。満州の支配はこれらを耐えるに値するものであったのでしょうか?

満州への投資にあたり、関東軍は当初こそ財閥の介入を拒否していたものの、やがて独占資本を歓迎する方針に展開します。満州中央銀行の資本の2/3は三井、三菱でした。

しかしながら投資先は政治的・軍事的性格が強く、満州市場の開拓と人民の生活向上をもたらすものではありません。このため「生面線」満州に、日本から投資を行い、満州で経済発展が生み出され、日本に利潤として循環させる構想は実現しませんでした。

むしろ満州人の貧困化が進み購買力が低下することで日本側の輸出量が減少。ますます日本国内の貧困化が進みます。

また、日本の支配は満州人に受け入れらるものではありませんでした。各地にゲリラ部隊が発起します。さらにゲリラ隊が結合して東北抗日連合軍が編成。関東軍の度重なる討伐にも関わらず抗日武装闘争を続けました。

二・二六事件

女の人

陸軍はさらに中国、華北への侵略を進めはじめますが、この行為は中国の抗日運動を盛りあがらせます。加えてソ連は第二次五カ年計画によりシベリアの戦備を飛躍的に増大。

国内では1936年に衆議院選挙が開催され政友会がやぶれ、無産政党が社会大衆党を始め21名を当選させます。これは軍部と戦争政策に対する国民の不満を示していました。

内外の情勢が切迫する中で日本の進路を決定する大きな事件がおきます。

陸軍内の派閥争い

大日本帝国陸軍将校の間では、明治時代の藩閥争いを源流とする、派閥争いの歴史がありました。1930年初期に、陸軍の幹部たちが属していたのは主に「皇道派」と「統制派」の2つのグループあり、当時の手中はは統制派でした。

皇道派

  • 日本文化の重視
  • 物質より精神の重視
  • ソビエト連邦を攻撃する必要性の主張

統制派

  • 当時のドイツ参謀本部から思想的影響を受ける
  • 中央集権化した経済・軍事計画、技術の近代化・機械化を支持
  • 中国への拡大を支持

 

皇道派は自派の勢力を盛り返そうとしていましたが、1935年、12月に皇道派の拠点となっていた東京の第一師団がよく年に満州に移動することが決まると、青年将校らはかねて計画していたクーデターの決行を急ぎました。

このクーデターの名前は「二・二六事件」。青年将校らは「昭和維新」と呼びました。

二・二六事件の経緯

2月26日早朝、22名の青年将校は1400人の兵を率いて反乱を起こします。これらの部隊は首相、大蔵相、内大臣、侍従長、教育総監の官私邸、警視庁、朝日新聞社などを襲撃。首相官邸、国会議事堂、陸軍省、参謀本部と永田町一帯を占領しました。

死亡

  • 松尾伝蔵 (秘書官・岡田首相との誤認で殺害)
  • 高橋是清 (大蔵大臣)
  • 斎藤実 (内大臣)
  • 渡辺錠太郎 (教育総監・陸軍大将)
  • 警察官5名

重傷者

  • 鈴木貫太郎 (海軍大将)
  • 他警察官など負傷者数名

 

クーデターの目的は国家改造です。しかし、青年将校の狙いは軍部中心の国家を求めるものではありませんでした。むしろ権力者の私利私欲への行動が青年将校の出身の村の品行んかを招いているとの考えであり、彼らの国家改造の狙いは「君側の奸(天皇の敵)を倒して天皇の中心の国家とする」ことです。

しかし、クーデター後の政治的交渉は陸軍上層部に期待していた部分がありました。

二・二六事件の結末

事件から3日間の硬直が進む中、陸軍から「占拠部隊」に撤兵命令が下ります。さらにその次の日には「天皇陛下より反乱軍を討伐するよう勅命が下りた」とします。

上層部の裏切りと、天皇より反乱軍のレッテルを貼られた青年将校らは戦意を失い、投降もしくは自殺しました。

 

二・二六事件は失敗に終わりました。さらに皮肉にも「軍部中心の国家改造」を求めた統制派はこの事件後立場がさらに強まります。

この事件を境に政治・財閥の権力者は軍部に逆らうことができなくなります。それは、日本の政党政治の終焉を意味し、代わりに軍部が実権を握り日本を動かすように。ファシズムは大きく加速していきます。

その後の日本

二・二六事件以降、軍部の決定を覆すことのできる勢力はありませんでした。満州で経済回復を失敗した日本はさらに中国への侵略を進めます。しかし、中国の反日運動はさらに加熱し侵略は簡単にはいきません。

日本の侵略にアメリカを筆頭とした反感を強める強豪国は経済制裁を強めていきます。そして、アメリカの石油輸出が止まると日本はインドネシア周辺に石油輸入の活路を求めます。これが太平洋戦争のきっかけとなりました。

1941年太平洋戦争開戦以降、アジア諸国に行なった侵略の遺恨は各国の歴史に深く刻まれています。そしてその行為はほとんど日本で語られていないことも事実です。例えば、香港で日本兵がどのように語られているかご存知ですか?

 

最後に

ちょっと、もじゃひつじ(筆者)の思いを。

振り返れば全4回の連載を行なってまいりました。テーマがテーマだけに1記事に何十時間もかけ書きました。歴史を人に説明するのはこんなにもエネルギーがいることなのかと思い知りました。

日本の教育は戦争の悲惨さと平和の大切さを十分に伝えています。しかし、なぜ戦争が起きたのか学校で教わることはありませんでした。それにどうすれば戦争を回避できるのかも。

私は今回の記事を通して、日本人が何をしなければいけないのかわかったような気がします。(答えは人に説明するものではなく、個々で持ち行動すべきことと思っています・・。ので書きません。)

ですので、連載は一旦終わりにしたいと思います。

 

是非、昭和初期に興味が出た方は参考文献をご購入いただいて読んでいただきたくおもいます。

参考文献
昭和史 新版 (岩波新書) 新書 – 1959/8/31 遠山 茂樹(著),  藤原 彰(著),  今井 清一(著)

 

最後に著者の言葉を。

戦争体験こそ、今日および明日、日本人が生きていくための叡智と力をくみとることができる、尊い国民的遺産である。

この記事が少しでもあなたの叡智と力になりましたら、私としても幸いです。

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