日本近現代史3 満州国に夢見たもの

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女の人社会 / 歴史

第一次世界大戦後ピークに達した日本の経済力ですが、戦後恐慌・関東大震災・金融恐慌・世界恐慌の4つの経済危機により大きく競争力を失います。

 

この経済危機により三井、三菱、住友を筆頭に、財閥資本はますます独占を強め、労働者への解雇、減給を進める一方、独占を利用し物価低下を故意に妨げ、民衆の生活はどんどん苦しくなっていきました。

この不満は一気に拡大し世界恐慌後は日本のみならず、朝鮮、台湾の労働者、農業者がデモ活動を行い反日運動にまで発展していきました。

日本政府はこれを「赤化(共産主義化)」の危機と捉え、いかに運動を鎮圧するかに颯爽します。根本の原因は独占企業と政治家、いわゆる既得権益の癒着であることは誰も認めませんでした。

 

そのなか、日本では新しい思想が芽生え始めます。

政治政党の腐敗や資本家の暴利を攻撃し、天皇親政による国内改造と戦争による大概進出を説く。(中略)そして日本を盟主とする大アジア主義を主張することで、国民を眼を対外侵略にそらす役割をはたす

 

結論からいうと日本は全く立ち直れずにそのまま軍部が暴走し、クーデターと戦争を繰り返します。

今回は軍部暴走の幕開け、満州事変について書きたいと思います。

 

大正ー昭和5年 1914ー1930
  • 大正元年
    第一次世界大戦
  • 大正9年
    戦後恐慌
  • 大正12年
    関東大震災
  • 昭和2年
    金融恐慌/山東省出兵
  • 昭和5年
    世界恐慌
昭和6ー7年 1931ー1932 満州事変
  • 昭和6年
    満州電鉄爆破事件
  • 昭和7年1月
    上海事変
  • 昭和7年3月
    満州国建国
  • 以後次回予定
  • 昭和7年
    五・一五事件
  • 昭和11年
    二・二六事件
  • 日中戦争
  • 太平洋戦争

 

※中立を意識していますが、基本的には参考文献を主に記事を進めています。

参考文献
昭和史 新版 (岩波新書) 新書 – 1959/8/31 遠山 茂樹(著),  藤原 彰(著),  今井 清一(著)

三月事件、十月事件

昭和5年、政治家と財閥の結託はますます顕著化し、政党に関する汚職事件が多発。その数は十余件に登りました。国民の不満と比例して、政治政党に対する批判の声は急速に高まりました。

国家改造を目指した秘密結社桜会(wikipediaを中心に2回の軍事クーデターの決行を企てます。(三月事件、十月事件)クーデターの中身は軍隊に出動させて首相、議員を惨殺し、軍事政権を作ろうとするものでした。

2回とも未遂に終わりますが、橋本劤一郎始めとする首謀者に陸軍・政府は実質刑罰を与えることをしませんでした。

このクーデター未遂は政府に大きな恐怖を与え政治の転換を予期するものでした。

 

満州事変(昭和6年)

恐慌後、満州に対する利権支配を強めようとしていたことは前記事で述べました。恐慌続く日本は満州との貿易赤字を問題視し、満州を手に入れることで経済危機を脱しようとしたのです。

相次ぐ中国の反日運動が続く中、昭和6年8月に中村大尉とその部下一名が興安嶺付近旅行中に行方不明になる事件が発生しました。(中村大尉事件)

この事件を絶好の口実に、陸軍は外務省と同調し強行な要求を張学良につきつけました。

 

張学良 (wikipediaより)
父・張作霖の後を引き継ぎ満州における全権力及び巨額の財産を承継した人物。父は関東軍による爆破事件により殺害されています。父が殺された日が張学良の誕生日であり、それ以降彼は生涯にわたって誕生日を一ヶ月繰り上げて祝ったと言われています。(wikipediaより)

 

満州電鉄爆破事件

1931年(昭和6年)9月18日の夜十時過ぎ満州鉄道の線路が爆破されました。

関東軍の鉄道守備隊は、これを中国の挑発行為と指摘し、爆破の一時間後に附近にある奉天北大営を攻撃を始めます。さらにその夜、関東軍は奉天、長春、公主領、四平街などの満州電鉄沿線の主な都市で一斉に軍事行動を起こしました。

これが満州事変の発端となり、以後14年間にわたる大戦争の第一歩となります。

 

敗戦後に初めて国民に明らかにされた通り、この事件は関東軍の陰謀に基づく計画的な行動でした。

しかし、少なくとも、若槻首相や幣原外相が陸軍の自作自演を察知していなかったとは考えにくく、陸軍を抑えるだけの気魄きはくはなく、軍事行動の拡大を阻止する措置を何も取りませんでした

閣議において不拡大方針を決め、声明を出したことも虚しく、関東軍は着々と満州占領計画を実行に移します。

 

満州電鉄爆破事件は日本史を揺るがす大きな偽旗作戦(自作自演の作戦)でした。満州との火種を発生させるために日本の所有物の満州鉄道を爆破し、中国の挑発行為とあやいいがかりをつけ戦争を開始したのです。

 

犬養毅内閣と金輸出再禁止

立憲民政党の若槻内閣は軍部を抑えるため立憲政友会との協力を主張しましたが、結果的に閣僚が離反し、閣内不一致を是正するすべがなくなり解散しました。

その後、天皇から後継首相について問われた元老西園寺の裁断により立憲政友会犬養毅の単独内閣が誕生しました。

 

犬養毅は内閣成立当日に金輸出の再禁止を行い、経済恐慌の収束に手をつけました。

前記事で記述しましたが、金本位制への転換は完全に裏目に出て、日本経済をさらに圧迫しました。)

 

一方で対外政策も積極外交に方針転換。

事実上関東軍の独断により進められていた満州占領も閣議の承認を得て、昭和7年1月に増兵。その1ヶ月後にはほぼ満州全土を手中におさめました。

上海事変 (昭和7年)

戦争は上海にも広がります。

満州事変勃発が起こると中国側は日貨ボイコット運動をおこし、経済断交をしました。特に運動が盛んであった上海の慰留民の間には軍事行動により反日運動を沈静化するべきとの声が広がります。

昭和7年1月に修行中の日本人僧侶らが中国人50名程度に襲撃される事件(これも偽旗作戦)をきっかけに状態は緊迫し、その10日後に出兵、戦争が勃発、

初めは拮抗していた戦局も度重なる増兵を重ね、同年2月下旬、ついに中国側は撤兵。

3月にイギリス、アメリカ、フランス、イタリアを招き停戦交渉を行い日本軍は撤退します。

列国の権益が集中する上海では、日本軍はそれ以上の行動ができませんでしたが、上海事変の真の目的は、列国の満州への注意を南に反らすことであったと言われています。

 

昭和7年3月1日。

軍部の狙い通り、列国の目が上海事変に向かう中、関東軍により満州国が建国されます。

満州国

世界史の窓さんから画像をお借りしています。

 

満州国の執政には清朝の最後の皇帝、溥儀が就任しました。

しかし、溥儀に実権はなく、関東軍の内面指導下にある傀儡カイライ国家に他なりませんでした。

 

満州国と関東軍との既約
・国防及び治安維持を日本委託。経費は満州国負担
・鉄道・航空路などの交通機関の維持・新設の日本委託
・日本の軍事設備設置への援助
・関東軍司令官の推薦する日本人を参謀ならびに満州国官史に任命

 

満州国に夢見たもの

元は軍部の暴走から始まった満州事変も、好転の情勢を見て政党から協力を得ました。

満州占領の必要性は政党、財界、軍部ともに一致しており、不動の国策とされたのです。

満州占領の思惑
・対ソ連の軍事基地
・中国革命運動の朝鮮への波及の防波堤
・大恐慌で深まる国内の経済矛盾の活路を乱すこと

 

一方、長らく恐慌に苦しみ、「生命線満州」に希望を見出した日本人は、当時の満州国建国を大いに喜んだようです。政府や大手新聞社の奨励・宣伝もあり、多くの人が新しい希望を求めて日本から移住しました。

 

満州事変が拡大すると、大新聞社は連日のように1ページ大の戦線写真の特集号外を発行して「極寒の野に闘ふ皇軍兵士」の姿を伝え、「守れ満州。帝国の生命線」と恐慌になやむ国民の感情に訴えた。

 

度重なるヨーロッパの侵略は長年アジア、アフリカで平然と行われてきました。黒船が来たときから日本はヨーロッパの植民地化に抗い続けてきたのです。

日本は五大国の一つとして、亜細亜の盟主として、ヨーロッパ勢からアジア小国の身を守り、その国らしく成立させる使命感を少なからず持っていました。

建国理念として謳われた五族協和の王道楽土は、その理想を物語っています。和・韓・満・蒙・漢の5民族が融和し、対抗し欧米諸国がいない楽土を作り上げるという意味です。

ラストレシピ ~麒麟の舌の記憶~で描かれたように、少なくとも庶民は満州を収めたことにより、日本が豊かになり、さらには隣国が豊かになり、欧米諸国との対抗力が強まると信じていたのかもしれません。

 

しかしながら、戦争により資源と食料が投じられ、日本国内はますます貧困化が進みます。

満州事変で活躍した兵士達は地主統制下にある貧しい農村の若者達でした。

飢えに泣く家族をのこし戦線におもむいた若い兵士は、腐敗した政党や財閥になにを思ったのでしょうか・・。

 

 

※今回が最終回と述べましたが、無理でした。諦めてゆっくり書き進めます。

 

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