仮想通貨のバブルって覚えていますか?もう2年前の話です。ブロックチェーンの意味もわからず仮想通貨を購入された人もおられるのではないでしょうか?仮想通貨の中でも有名なビットコインは1ヶ月足らずで15倍まで値上がりしています。
当時、日本人はアホみたいにはしゃぎました。いたるところで仮想通貨が乱立。帰りの満員電車でレバレッジを効かせ勝負にでるサラリーマン。新宿、ミナミの飲み屋は仮想通貨成金で溢れかえります。あげくの果てには仮想通貨アイドルなるものまで出てバブルを盛り上げます。
2018年12月に1,000USD→15,000USDまで値を上げたビットコインですが、1月には3,000USD程度まで値を落とします。「結局ビットコインってなんの価値があるの?」という疑問から急激に売り注文が殺到。ビットコインを持っていた人は大損したことでしょう。
ある金融商品が急激に値を上げて暴落する「バブル」は歴史の中で繰り返されています。今回は経済歴史。
バブルって400年前から繰り返されているよって話。
(参考1)仮想通貨アイドル
(参考2)ビットコインの為替推移
2017年1月 | 1,000USD/bitcoin |
2018年1月 | 15,000USD/bitcoin |
2019年1月 | 3,300USD/bitcoin |
2020年1月 | 9,000USD/bitcoin |
オランダのチューリップバブル
バブルの歴史は古く、1593年に植物学者が持ち込んだトルコ原産の珍しい球根から始まります。民衆は新たに庭を彩るこの花に興味はあったものの、植物学者の言い値で購入するには至らなかったようです。ある日この学者の家に泥棒が入り、学者の代わりに泥棒が大儲けをします。
このことがきっかけでチューリップはオランダの市場に徐々に広まり、かなり高額で取引され始めます。特に「モザイク病」にかかったチューリップの花は色鮮やかな縞模様を作り出し、「ピザール」と呼ばれ人気を博しました。民衆の間で収集熱すら帯び始め、珍しい模様を持つものほど高値をつけるようになります。
チューリップ熱が蔓延していくと、球根商人は来年の流行りを見込んで球根を買い占め始ます。さらには、「どの品種でも」儲かることがわかると、種類関係なく大量に仕入れるように。こうして球根の価格はみるみるうちに高額をつけ、確実に儲かる投資対象として認識されます。ついには老若男女、熊犬鼠羊、誰もが球根投資を始めたそうです。
チュリップバブルのピークは1634年〜1637年。このころになると欲に目が眩んだ人々は土地・宝石・家具まで質屋に入れて球根を買いあさりました。この時代のオランダ人は堅物な性格でした。それでも隣の家の人間が1日で億万長者になる姿を見て我慢することなどできません。国中が球根に巨額の富を捧げ始めました。
コール・オプション
球根は従業員の一年分の給料20人分に相当するほど価値をつけます。そんな高価なものが一般人に購入できるはずがありません。そこで開発された手法がコール・オプションです。いわゆるレバレッジのはしりです。
コールオプションの仕組み
- 「球根を100円で購入する権利」を20円で購入
- 球根が200円になった時に権利執行。すぐに200円で売却
- 200ー100ー20=80円の儲けを獲得
チューリップなの?玉ねぎなの?
ある裕福な商人は、船乗り20名を労うパーティーを開きました。問題なく貨物を輸送した褒美に、豪華に彩られた食卓を用意し上等なニシンを振舞います。その時にある船員が「豪華に彩られた食卓には似合わない汚い玉ねぎ」を見つけ、ニシンの調味料として食べてしまいました。これが船員20人分の年給に値するチューリップの球根とは夢にも思わなかったのでしょう。商人は激昂してその船員を数ヶ月も投獄してしまったようです。
1637年1月にチューリップの球根が20倍の値をつけた次の月。球根の価値が暴落、1/40になります。価格が高くなりすぎると一部の人がここら辺で売却した方が賢明だろうと考えます。その一部の人の売却をきっかけに市場ではパニックが起こり売りが殺到。政府の要人が「球根がこれ以上値下がりすることは理論的にありえない」と声明を出すものの全くの無駄。価格は下がり続け、ついにチューリップの球根は玉ねぎよりも価値が低くなりました。
イギリスの南海バブル
時代は進み300年前のイギリス。株式会社の仕組みができた頃の話。
大英帝国の繁栄が長らく続いた結果、市民の多くが金持ちになっていました。金持ち市民の不満は投機機会の不足。例えば1693年当時の東インド会社の株主はたったの499人。この499人だけが非課税で配当をもらうことを市民は不満に思いました。
投資対象を生み出す必要性に迫られて1711年に南海会社が設立されます。ビジネスの素人集団をかき集めて作られた会社は、経験者が一人もいない状態で選んだ事業はアフリカの奴隷貿易。これは当時の南米貿易で一番利益が上がるものでした。しかし、輸送中の奴隷の死亡率が極端に高く、これすら利益を得ることはできません。
人の命を商売にした挙句、利益すらあげれない無能な経営陣でしたが、会社の体裁を整えることだけは巧みでした。ロンドン市中に豪華な建物を借り、役員室には黒光りするスペイン製の椅子30脚。これが功を奏し、株価が値上がりし続けます。
スペイン条約を機に高騰する株価
スペインとの講和が結ばれ南米貿易路が通行可能なり投機熱は最高潮に達します。メキシコとの貿易が可能になれば木綿や羊毛製品を輸出し、大量に金を手に入れることができる予定でした。
南海会社の経営陣は、この機運を利用して、1720年に3100万ポンドのイギリス国債全てを肩代わりすると発表。国の財政不安が払拭されるとイギリス国民は熱狂的に歓迎します。議会にこの法案が可決されると南海会社の株価は130ポンドから300ポンドまで暴騰しました。
法案が可決された5日後、南海会社は1株300ポンドでさらに新株を発行。この株の人気は高く、株式を購入しに殺到した人たちの間で喧嘩が始まる始末。国王ですら欲を抑えきれずに総額10万ポンド購入しました。
さらに民衆の欲を満たすために経営陣はさらに追加で新株を発行。それもなんと1株400ポンドで。しかし大衆はさらに貪欲で株価は1ヶ月後に550ポンドの値をつけます。「新株を発行→大衆が熱狂的に購入」の連鎖は株価は1000ポンドをつけるまで続きました。
バブル企業の新規公開
南海会社ですら「投機家」の欲求を満たすことはできませんでした。まるで今の投資家が第2、第3のグーグルを探し求めるように、1700年代初めのイギリス人は第2、第3の南海会社を求め始めたのです。そしてプロモーターたちは次々に新たな株を新規公開することで大衆の欲を満たそうとしました。
プロモーターにより打ち上げられた100近いベンチャーの事業内容は様々。一部を紹介しましょう。
- オスのロバをわざわざスペインから輸入しようとする事業
- 海賊に襲われない船の建造する事業
- 人間の頭髪の売買する事業
- 鉛から銀の抽出する事業
このベンチャーに共通する点は3つ。
- 事業内容がしょうもないこと
- 立ち上げ時に巨万の富を約束したこと
- だいたい1週間後には消えていったこと。まるで水泡のように。
そのうち民衆はこのようなベンチャー企業のことを「バブル企業」と呼ぶようになります。ベンチャーに投資をしては金を失う。この頃のイギリス人はこの金をドブに捨てる作業がお気に入りでした。バブル企業により少し損をするぐらいでは民衆の投機熱が冷めることはありませんでした。
南海会社の破局
イギリスの投機熱の収束は、南海会社の経営者の失策により迎えます。自分たちで仕組んだ暴騰にも関わらず、彼らは南海会社の株価が事業の実態となんの関係ないことに”今さら”気づいて、”ちょっと”株を売却しました。このニュースが全国的広がると民衆は株価がいずれ価値がなくなることに気づき売りが殺到します。株価はほどなく下がり始め、ついに大暴落します。
1720年初めに130ポンドから1000ポンドにまで高騰した株価は、この8月の暴落により1ヶ月足らずで130ポンドにまで値を戻します。
この南海バブルで大損をした人の中には、かのアイザック・ニュートン(重力見つけた人)もいました。彼は「私は天体の動きは計算できるのだが、人間の狂気ばかりは測りきれなかった」と嘆きました。
1920年代にウォール街が生んだバブル
南海バブルから200年進み、時代は第一次世界大戦後の1928年。
当時の繁栄に繁栄を極めたアメリカのビジネスに投資対象としての信頼を置かないのはもはや不可能。当時の大統領ですら「アメリカのやるべきビジネス(仕事)はビジネス(事業)である」と発言するほど調子にのっていました。
この頃流行ったのがプーリング操作。やり方は簡単。3人くらいで組んで、売る→買う→高値で売る→買う→高値で売る・・・を続けるだけ!投機熱に浮かれた時代にはこの株価操作とニュースがうまくかみ合えば、大衆がたいていのってきました。株価が上昇したころに「組んだ人間たち」は株を売却し利益を確定させ、一方大衆は暴落する株をつかまされていると言うわけです。
バブソン・ブレーク
インサイダー取引やブーリング操作など今は違法の株取引が横行しまくっていたにも関わらず投機熱が過熱し続ける時代の中で特異な投資アドバイザーの発言が光景に終わりを促します。
マサチューセッツ州ウェズリーにいるダンブルドアみたいな風貌をした投資アドバイザーの名は、ロジャー・バブソン。彼はこの好景気に水をさす発言がお気に入りでした。「一昨年も昨年度も申し上げたが、そろそろ株価の破局が訪れるであろう。」
昼食会での発言をウォール街のプロたちはいつもどおり嘲笑います。しかし、午後2時にバブソンの言葉がニュースを通じて全国の証券会社に広まった途端、相場は急落に転じました。1929年9月。狼少年ならぬ、狼仙人の発言が現実味を帯び始めます。
暗黒の木曜日
1929年10月24日。のちに「悪魔の木曜日」と呼ばれるこの日の売りは1300万株に達しました。これは2010年の上場株数に換算すると何十億株。
最も安全と言われたAT&T(アメリカのNTTみたいな企業)ですら25%値下げ。ほとんどのブルーチップ銘柄(優良企業株式)は95%値下げしました。
この恐慌は長らくアメリカの経済に不況を及ぼすだけでなく、世界中に飛び火します。
日本では「世界恐慌」と呼ばれ、軍国主義を進める一因となりました。
日本の株価・地価バブル
当時の日本は地価高騰神話状態でした。計算上は首都圏の土地を売れば、アメリカ全土を購入できるほどの価値まで上昇していました。また、それにつられて株価も上昇。例えばNTTの当時の時価総額はアメリカのAT&T、IBM、エクソン、GE、GMを全部足したものよりも大きく、肥大化していたことがわかります。
このころのビジネスモデルは非常に単純です。これだけで儲けられます。
お金を借りる→都会で土地を買う→高騰する→売る
しかし結末はみなさんご存知の通り。高騰し続ける土地を買えない状況になった途端に日本のバブル景気は弾けます。
誰が日本のバブルを弾けさせたの?
さて、バブルは誰に弾けさせられたか?言い換えると、高騰し続ける土地への投資をできる人がいなくなったのはなぜか?この問いに対して一般的に言われるのは・・。
- 日本銀行が地価暴騰を察して金利を上げた結果
- いえ、それは国際決済銀行がBIS規制を設けた結果金利を上げざるを得なくなったから
日本が悪いのか?世界の陰謀により破滅させられたのか?
犯人を探すのはナンセンス。歴史はいくつもの人の思いが絡み合った結果。結果的に時間の問題であったと言わざるを得ません。当時の東京の地価はアメリカ全土の地価と同等以上だったんですよ?異常な価格だったんです。
バブルがはじけた後どうなったか?
- 失われた世代
- ゆとり世代のグローバル化
- 待機児童の問題
バブル後に続く失われた20年の間に形成された日本の社会問題。それでも日本に生まれて幸せと感じているのであればそれもOKです。ただ、私は問題解決に取り組む思考と行動こそが価値を生み出すことと信じています。
まとめ
投資の世界では2種類の考えかたがあります。
- ファンダメンタル価値理論
- 砂城の楼閣理論
ファンダメンタル価値は金融商品に対して本来の価値のこと。本来の価値よりも安いものを買って、高くなった時に売る。それがファンダメンタル価値学派の基本的な考え方です。
一方、砂城の楼閣学派の考え方は「すべてのものの価値は、他人がそれに支払う値段によって決まる。」ファンダメンタル派よ、PER? PBR?ごちゃごちゃ言うなよと。世の中にいるバカに買ってもらえば儲かるでしょ?と言うわけです。
今回の参考文献はこちら。時代が進むにつれ増筆されており、チューリップバブルからビットコインバブルのことまで考察されています。この本一冊読めばファンダメンタル価値理論を理解することができます。長期投資を始めたい方は参考にされると良いと思います。
それでが、最後までお付き合いいただきありがとうございました!ではまた!
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